宇崎竜童の実家や生い立ちは!若い頃、阿木燿子と出会い、52年!子供はいる?

ロックバンド

70年代に入って、「スモーキンブギ」を引っさげて登場した、ダウンタウンブギウギバンド

おそろいの白いツナギで、一見不良そうなこわいイメージの4人組のバンド。

『あんた、あの子の何なのさ!』の「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」も大ヒットしました。

ボーカルの宇崎竜童さんも、もう、78歳‼

男が憧れる男、宇崎竜童さん、いい感じに年を取って、俳優としても、渋い味を出していますね。

懐かしさがあふれてくる宇崎竜童さんの、奥さんや子供さんのことなど、振り返って見ました。


宇崎竜童の実家・生い立ち

宇崎竜童さんは、戦後まもなくお母さんの実家がある疎開先の京都で生まれました。

戦時中に妊娠したお母さんは、こんな時に子供を産んでいいものか、悩んだそうです。

中絶も視野にありましたが、戦争が終わった放送を聞いて、思いとどまったそうです。

際際のところで与えられた命、ですね。

そして、生後まもなく東京に住まいを移します。

お父さんの、木村又一郎さんは、東京商船学校を卒業した人。

代々木上原で、船具店を経営していて、繁盛していました。

なので、結構裕福で、豪邸に住んでいました。

運転手付きの自家用車もあったのです。

時代が、戦後の復興時期だったにもかかわらずそんな生活だったので。

お父さんの仕事はかなりの成功だったのですね。

しかし、中3の時に、その店が倒産するのです。

そこからは、借家生活が始まります。

でも、私立の明治大学に行かせてもらったのですから、お父さんもその後頑張られたのでしょうね。

宇崎竜童さんは、7人兄弟の末っ子で、兄が2人、姉が3人いましたが、すぐ上の兄は病気で亡くなっています。

羽振りのいい時期には、お父さんに、何でも一流の物を買い与えられていたと言います。

極端な人々の暮らしを経験したのですね。


宇崎竜童の若い頃

宇崎竜童さんの若い頃、かっこいいですね。

ちょっとこわそうな、暴走族っぽい雰囲気も持っていますが、それも又魅力なのかも知れませんね。

これは、1974年にヒットした、「スモーキンブギ」の時の衣装。

ダウンタウンブギウギバンドは、当時「サディスティック・ミカ・バンド」という長いバンド名に対抗したバンド名。

宇崎竜童さんが、考えた名前です。

しかし、アマチュア当時のバンドメンバーに、この名前とレコーディングをもちかけた所…。

みんな、おじけづいてしまって、解散になります。

なので、また一からバンドメンバーを集めて、1973年に「知らず知らずのうちに」でデビュー。

白いつなぎは、メンバーが運送屋でアルバイトをしていた時の作業服からヒントを得たものです。

寝間着にでもして、と持ってきてくれたのを、着て演奏していたら、若い子たちに大好評!

なので、それがバンドの衣装になったわけなのです。

こちらは、5人になってからのメンバー。

港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は、阿木燿子さんが、しばらくぶりに作詞を依頼された作品。

作詞の勘がにぶっていたのかわかりませんが、字余りが多くて、曲がつけられない、と言うことで…。

ここは、語りにしよう、ということに。

流行語にもなった、「あんた、あの娘のなんなのさ」と言うのも、そんな経緯があったのですね。

「ちょっと前ならおぼえちゃいるが…」なんてフレーズは、曲は付けずに、語りにしたのが成功したのですね。

やはり、阿木燿子さんの詞は、筋が通っているから、なのでしょうか。


宇崎竜童、阿木燿子との出会い

宇崎竜童さんは、1064年(昭和39年)に、明治大学に進学します。

先輩に言われて、軽音楽部の勧誘をしていた宇崎竜童さん。

入学式の翌日、校門をくぐって来た阿木燿子さんを目にした宇崎竜童さん。

あ!嫁が歩いてきた!」と直感したと言います。

要するに、一目惚れだったんですよね。

楽器をやったことはない、と言ったら、「僕が教えます」と。

歌えません、と言ったら、「大丈夫ですよ」と。

とにかく、一緒のクラブに入れたい一心ですよね。

クラブに入ってくれた時、この人と結婚することになっている!と思ったそうで…。

運命の出会いですよね。

かなり目を引く美人だったでしょうから、先手必勝したのですね。

そして、入部した阿木燿子さんに、作詞をまず頼むのです。

そしたら、曲をつける宇崎竜童さん。

個人的なお付き合いがしたい気持ちはあったけれど、半年は我慢したのだとか。

そして、半年過ぎて、2人で会いたい、と電話をしました。

そうして、最初から、あなたと僕は、結婚することになってるから、と直撃発言!

それからも、会うたびに「結婚しよう」と言っていたのだとか。

洗脳みたいですね。

でも、女性側だって、やだな、と思ったらどこかで逃げることもできたでしょうから。

阿木燿子さんとしても、何だか心地よい人だったのでしょうね。

そして、1971年、25歳の時に、二人は結婚します。

阿木燿子さん、目の覚めるような美しさですね!


宇崎竜童の年齢・本名・身長・出身・血液型・学歴

宇崎竜童さんの

年齢:1946年(昭和21年)2月23日生まれ 78歳

本名:木村修司

身長:175㎝

出身:京都府京都市伏見区

血液型:O型

学歴:明治大学法学部卒

宇崎竜童のファン:鈴木雅之、桑田佳祐

宇崎竜童の娘は誰?

宇崎竜童さんと阿木燿子さん、このお二人には、娘さんがいる、という記事を目にします。

しかしながら、子供さんはいないようですね。

なのに、なぜ子供ワードが存在するのか、と考えるに…。

宇崎竜童さんは、俳優としてもドラマなどに出演していて、娘役、息子役の人がいるのです。

そういうところから来ているのかもしれませんね。

それと、2001年が初演の、

阿木燿子氏プロデュース・宇崎竜童氏音楽監督の「FLAMENCO 曽根崎心中」

が、2018年からは、『Ay 曽根崎心中』として、ロングランを続けています。

この作品は、本場のスペインでも上演されたり、文化庁芸術祭舞踊部門優秀賞に輝いたりしています。

この舞台には、宇崎竜童さんも阿木燿子さんも並々ならぬ愛着で、ここまできました。

なので、子育てしているみたい、と二人は語ります。

そのワードの影響もあるのかも知れませんね。


宇崎竜童のダウンタウンブギウギバンドの付き人は、所ジョージだった!

所ジョージさん、と言えば、タレントさん、というイメージですが、元々は歌手でデビューしています。

色んなオーディションに落ちていた、所ジョージさんが、ある時、宇崎竜童さんを訪ねて来ました。

タバコ1カートンを「賄賂(ワイロ)」に、ダウンタウンブギウギバンドの前座に採用されます。

ダウンタウンブギウギバンドの前座だから、と思ったのでしょうか。

髪をリーゼントにして、濃いサングラス、つなぎ姿でステージへ。

でも、テレビ局のプロデューサーが見つけてくれて、デビュー出来ることになります。

宇崎竜童さんのおかげですね!

そして、芸名をつけてほしい、とまた訪ねて来ます。

そこで、所ジョージさんは、所沢の人だったから、「所」。

それに、ちょっとアメリカっぽい名前がいいんじゃないか、ということで、ジョージ、と。

まさに、恩人の宇崎竜童さんの元には、今もお中元、お歳暮が届くそうです。

そこは、律儀な、恩を忘れない人ですね!

ちなみに、所ジョージさんの本名は、「芳賀 隆之(はが たかゆき)」さんです。


宇崎竜童と山口百恵

山口百恵さんは、1976年に、作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童の「横須賀ストーリー」を大ヒットさせます。

“これっきりこれっきり もう これっきりですかー”の曲ですね。

一度聞いたら忘れません。

実は、山口百恵さん、自らこの夫妻に依頼を希望した、とのことです。

これによって、大人っぽい女の歌を歌い始めるきっかけになったのですね。

と言っても、弱冠17歳の時ですが。

イミテーションゴールド」「夢先案内人」「プレイバックPart2

美・サイレント」「ロックンロール・ウィドウ」「乙女座宮

そして、現役最後の歌である「さよならの向こう側」。

この、どれもが山口百恵さんと一体化したように、大ヒットしましたね。

山口百恵さんも、宇崎竜童さん夫妻のことを、一生恩人と思っているに違いありません。

 

山口百恵さんの情報はこちらからご覧になれます↓

 

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