寺尾聰(てらおあきら)の現在、病気?、妻は星野真弓、子供は?父は俳優!「ルビーの指環」で紅白!

俳優

寺尾聰さん、と言えば「ルビーの指環」。

低音で渋い声、そして切々と別れた女性の姿を探してしまう、という男性の未練を歌いました。

寺尾聰さんは、俳優さんだと思っていましたが、1981年、昭和56年に大ヒットしましたね。

そんな寺尾聰さんも76歳!

病気、というワードや死亡、というワードも・・・。

どっちでもない元気な現在のこと、メチャメチャ美人の奥さん、子供さん、大俳優のお父さんのことなど。

プロフィールも交えながら、まとめてみました。


寺尾聰(てらおあきら)の現在は?今は病気はしていない

寺尾聰さんには、病気、というワードが必ず出てきますが、現在76歳の寺尾聰さんが病気しているのではないのです。

それは、寺尾聰さんが29歳の時、「穿孔性胃潰瘍」という病気に。

ある日、急激に胃が激痛に見舞われます。

病院に運ばれて、4日間も意識不明、そして、胃を80%切除。

これによって、体重が4日間で、20㎏減ったのです!

まさに、生死をさまよう重病だったのですね。

「病気」というのも、この時のことで、47年も前の話です。

そしてこの頃は、テレビドラマにも出ていて、知名度もあったのです。

しかし、短期間に20㎏も体重が減ると、体力もいっぺんに落ちるし、それまでのようなパフォーマンスはなかなか戻りませんね。

なので、仕事もかなりセーブするより仕方ないですね。

そして、テレビで見ることが極端に少なくなったことで、「死亡」説が出るようにもなりました。

しかし、今の寺尾聰さんは、まずは何と言っても、2023年の紅白歌合戦に出場が決まりました!

元気のない人が、出演交渉にOKするわけないですよね。

2023年、4月には、ドラマ「ラストマン-全盲の捜査官-」に出演。

同じく2023年9月には、山田洋次監督の映画「こんにちは、母さん」に出演。

静かで温かい人間味のある演技で存在感があります。

そして、音楽活動も続けています。

東京でのライブ、また2023年は、コロナによる規制も解けたので、クリスマスディナーショーも、新横浜プリンスホテルで行なわれます。

寺尾聰さん、お元気で何よりです!


寺尾聰の妻は、元女優でモデルの「星野真弓」!元妻は「范文雀」

寺尾聰さんの奥さんは、元女優でモデルだった星野真弓さんです。

キリッとした、きれいな方ですね!

二人が出会ったのは、テレビドラマの『西部警察』(1979年から1982年)での共演がきっかけです。

当時の星野真弓さんは、19歳。

そして、寺尾聰さんは34歳。

年の差が15歳ありますが、寺尾聰さんは、まだ女優業に慣れない星野真弓さんがリラックスできるように寄り添います。

と言うか、寺尾聰さんの一目惚れだったんでしょうね。

そして、注目度の高い二人のデートは、もっぱら寺尾聰さんの自宅だったようです。

そうして、星野真弓さんの妊娠がわかり、寺尾聰さんの要望で、結婚したら家庭に入ってほしい、と。

芸能界を引退します。

現在は、寺尾聰さんの個人事務所の社長さんをしていて、公私ともに、寺尾聰さんを支えている、とのことです。

ちなみに、ですが、星野真弓さんと付き合う前には、ジュディ・オングさんと交際していた寺尾聰さん。

結婚も考えていたようですが、ジュディ・オングさんは、引退するつもりはなかったので、別れたのですね。

寺尾聰さんの結婚は、星野真弓さんは、2度目で、最初の結婚は、1973年6月、26歳の時です。

1971年のドラマ『2丁目3番地』で共演した、女優の范 文雀(はん ぶんじゃく)さんです。

1973年6月に結婚、范文雀さんは、芸能界を引退します。

しかしながら、この結婚は、1974年11月には離婚・・・。

仲人してもらった石原裕次郎夫妻と共に、離婚会見まで開きましたが、すれ違い、性格の不一致などと発言していました。

『サインはV』や『プレイガール』、『アテンションプリーズ』などの高視聴率のドラマで活躍していた范文雀さん。

仕事がしたかったのかも知れませんね。

そんな范文雀さんは、1998年(平成10年)に悪性リンパ腫で11月5日に逝去します。

54歳。

残念なニュースでした・・・。


寺尾聰の子供は3人

寺尾聰さんと星野真弓さんの結婚後、寺尾聰さんが35歳の1982年に、女の子が生まれました。

この時、寺尾聰さんは、

この子の生きざまを大らかに見守ってやりたい「”お父さん大好き”と言ってくれる子供に育てる」

と語っています。

そして、この長女を筆頭に、3人の子供がいる、とのこと。

ただ、寺尾聰さんは、多くの有名人がそうであるように、自身の家族のことなど、プライベートな事は、露出しないようにしているようです。

子供は、2人という記事もあり、3人と書いている記事もあるのです。

そして、孫は6人、という記事も見つけましたが。

子供さんたちは、もう30歳代なんでしょうし、お孫さんにも恵まれているようで良かったです。

そして、長女さんは、女優の「鈴木杏」さんに似ている、とのこと。

2012年に、寺尾聰さんは、鈴木杏さんと共演し、そう発言しています。

きれいな女優さん。

目がくりっと大きいところ、寺尾聰さん似、なのかな。

美人は、お母さん似、ですよね!


寺尾聰の父親は、俳優の「宇野重吉」!

寺尾聰さんの父親は、俳優の「宇野重吉」さん。

「劇団民藝」の創設者です。

舞台、映画、テレビドラマ、NHKの大河ドラマなど、1950年代から、1980年代まで、数え切れないくらいの出演をしています。

私が、テレビを見ていた子供の頃は、家族のお父さん役、おじいさん役などの記憶があります。

ひょうひょうとしていて、落ち着いた演技、それでいて、気さくなイメージがありました。

俳優として重鎮だった父の存在に寺尾聰さんは反抗心もあり、音楽の道をめざしたのですが。

反抗期をこじらせて不良時代の寺尾聰さんを、俳優の息子なんだから、恥をかかせるな、なんて態度はまったくなかったのです。

高校時代、ケンカをして警察に連れていかれても、お父さんが、人目もはばからずいつも迎えに来てくれ、静かに見守ってくれました。

そんな父の存在に、心を入れ替える寺尾聰さん。

1968年(昭和43年)には、俳優デビューします。

黒部の太陽』です。

黒四ダムの建設にたずさわった男たちの物語。

かなりの費用がかかることとなり、石原裕次郎さんに相談された宇野重吉さんは、手を貸すのです。

豪華俳優陣を、宇野重吉さんが集めたことで、石原裕次郎さんからの信頼が大きくなります。

この『黒部の太陽』には寺尾聰さんは、ちょい役で出演。

そして、石原裕次郎さんは、息子の寺尾聰さんを、石原プロに入れて育てます。

父の宇野重吉さんとの共演は、次に、1976年(昭和51年)、映画の『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』で果たしています。

その後は、1979年(昭和54年)からの『西部警察』の松田刑事(リキ)役に。

又、1980年代になると、黒澤明の映画にも出演するように。

』、『』、『まあだだよ』に続けて出演。

父親の、宇野重吉さんは、1981年(昭和56年)に紫綬褒章を受賞。(67歳のとき)

そして、息子の寺尾聰さんも、2008年(平成20年)に同じく紫綬褒章を受賞。(61歳のとき)

すごい父子です。


寺尾聰の大ヒット曲「ルビーの指環」

寺尾聰さんの「ルビーの指環」は、1981年、34歳の時に発表。

6枚目のシングルです。

作詞は、松本隆さん、作曲は、寺尾聰さんです。

当時所属していた「石原プロ」では、こんなお経みたいな曲、売れる?、と不評だったのです。

しかし、石原裕次郎さんの、いいんじゃない?、の一言で、レコードにすることに。

発売から少したってから、だんだんと売れ出し、オリコンシングルチャートで1位を獲得。

そして、様々なチャートでも1位を獲得します。

『ザ・トップテン』では、10週連続第1位、通算で12回1位を取っていて、破られなかった記録を残しています。

『ザ・ベストテン』でも、番組終了まで、12週連続1位が破られることはなかったのです。

それに、この曲は、1982年の春の選抜高校野球の入場行進曲に採用されました。

また、ヨコハマタイヤの『ASPEC』のCMソングにも採用。

加えて、この曲の大ヒットのおかげで、「SHADOW CITY」(3枚目シングル)や「出航SASURAI」も便乗で、改めてヒットします。

紅白歌合戦は、この年(1981年)、2007年にも「ルビーの指環」を歌いました。

2023年の紅白歌合戦でも、また聞けるのでしょう。

渋さに、磨きがかかっていることでしょうね。


寺尾聰は、グループサウンズ時代に「ザ・サベージ」の一員だった

寺尾聰さんは、1965年に、グループサウンズのバンドである、ザ・サベージ(The Savage)を結成。

この時の寺尾聰さんは、ベース担当で、ボーカルもやっていました。

高校3年生の時です。

その前にも、テディボーイズというグループでやっていましたが、このザ・サベージでは、「いつまでもいつまでも」でレコードデビューします。

グループサウンズ、というと、長髪のイメージがあります。

しかし、ザ・サベージは、ビレッジシンガーズなどもそうですが、短髪で爽やかなイメージで、フォーク系の曲を歌っていました。

2曲目の「この手のひらに愛を」と共に、曲はヒットし、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ザ・スパイダースと並んで、人気のグループでした。

しかし、1967年、寺尾聰さんが脱退。

その後、ザ・サベージは、加入、脱退、死去したメンバーもいて、1969年には、活動は停止しています。

そもそもは、寺尾聰さんの父が「劇団民藝」の創始者、という環境に反発心があって、音楽に傾倒したのです。

しかし、ザ・サベージを辞めたのは、俳優の道を目指すため、という理由がありました。

が、しかし、グループの中で、まわりと協調することが難しい性格だった、と言うことも否めないのでは。


寺尾聰の年齢・身長・出身・学歴・血液型・性格

寺尾聰さんの

年齢:1947年(昭和22年)5月18日生まれ 76歳

身長:176㎝

出身:神奈川県横浜市保土ケ谷区 (東京都の育ち)

学歴:法政大学第2高校中退。野球をやっていて、甲子園を目指すため、進学する。

しかし、この頃の寺尾聰さんは、ケンカが多く不良だったことで、すぐに退学処分に。

次の年、和光学園高校へ入学するも、不良が落ち着いたわけでもなくて、2度の留年の後、卒業(20歳を過ぎて)。

高校生なのに、お昼には、外から出前を取っていたことが、伝説になっている(笑)。

この後、大学には進学せず、文化学院(服飾系の専門学校)へ入学、卒業。

血液型:A型

性格:若い頃は、短期、気難しいところがあり、人となじむのが難しかった。

「ザ・サベージ」を結成して、歌も売れたが、この性格が災いして、脱退します。

次に1968年、グループサウンズの「ホワイトキックス」に参加しましたが、シングル1枚出した時点で解散。

年を取って、若い頃のようなことはないとしても、性格は一転することはなく、「やんちゃ気質」ではあるようです。


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