笠置シヅ子さんの半生を描く、朝ドラの「ブギウギ」。
いよいよ、ライバル、とも言われた、淡谷のり子さんが登場しますね。
淡谷のり子さんと言えば、ブルースの女王、と言われた歴史に残る歌手です。
「ブギウギ」では、茨田りつ子、として、菊池凛子さんが演じます。
私の思い出としては、淡谷のり子さんが、モノマネ番組で、審査員として、ズバズバと辛口なコメントをする人、という印象があります。
淡谷のり子さんの半生も、把握しよう、と調べてみました。
淡谷のり子には娘がいる、秋本順子なの?
淡谷のり子さんには、娘さんがいる、とのこと。
歌手の秋本順子さん、だという記事があります。
淡谷のり子さんが結婚した、和田肇さんとの間には、子供はもうけなかったようなのですが。
じゃあ、娘さんの父親は?、となると、ディック・ミネさんだということがまことしやかに言われていて。
ディック・ミネさんは、当時、かっこいい、モテる男性で、遊び人でもあったのです。
そして、秋本順子さんは、年格好や、どことなく似ている、というところから言われていたのですが。
でも、秋本順子さんは、1947年生まれなので、ここで食い違いがあり、この話は事実ではないようですね。
父親の事は、娘が出来たとも知らず、中国で死んでしまった、と語っていたそうです。
淡谷のり子さんご自身は、娘さんのことも、その父親のことも、誰、などと生涯口にすることはなかったそうです。
女性として、とても勇気がいることだったでしょうね。
淡谷のり子の晩年、死因は?
淡谷のり子さんは、80歳を前に、「ものまね王座決定戦」(フジテレビ)で審査員を務めます。
独特のしゃべり口で、辛辣なコメントをして、「名物審査員」になりました。
私も、淡谷のり子さんにコメントを振られるのを楽しみにしていました。
特に、元歌の歌詞を変えて歌う、悪ふざけなモノマネをする清水アキラさんが出てくると、顔の表情が、すごくこわくなって、点数も低くしか出しません。
私も同感で、淡谷のり子さんのコメントも、点数も、スカッとしていました。
でも後に、清水アキラさんは、おかげで自分の芸が磨かれた、と言っています。
そして、80歳で、全国80カ所コンサートを実施。
85歳には、新曲「揺り椅子」をリリース。
しかしその後、1993年(平成5年)に、脳梗塞になり、倒れます。
そして、軽度の麻痺が残り、意欲なども減ってきて、1996年(平成8年)には寝たきりに。
しかし、後輩の歌手たちに企画されて、1996年、米寿コンサート、1998年には、青森市名誉市民の推戴式に車椅子で登場。
そして、1999年9月22日、老衰のため、逝去されます。
享年、92歳ですね。
80歳を越えても、全国をまわって歌われたこと、頭が下がる思いがします。
淡谷のり子の夫は誰なの?
淡谷のり子さんの夫は、ジャズピアニストの、和田肇さんです。
淡谷のり子さんの歌の伴奏を務めた縁で、1931年に結婚されます。
1歳、年下です。
淡谷のり子さんと同じく東洋音楽学校(東京音楽大学)ピアノ科を卒業。
しかし、1935年には離婚。
わずか4年ほどの結婚生活ですね。
淡谷のり子さんは、歌手として乗りに乗っていた時期だったから、すれ違い生活だったのでしょうか。
淡谷のり子の若い頃は
淡谷のり子さんは、22歳の時、10年に一人のソプラノ、と呼ばれる実力までになりました。
これは、元々のものではなく、指導者の久保田稲子さんと共に、必死の努力でのことです。
また、淡谷のり子さんは、クラシックを真摯に勉強し、クラシック歌手として、デビューします。
しかし、それだけでは、家計を支えられず、流行歌も歌うのでした。
当時の学校では、これを、低俗な歌を歌った、とか堕落、と見なされたそうですが。
加えて、淡谷のり子さんは、ブルースだけではなく、シャンソン歌手としても日本人第1号となります。
それに、戦時中の慰問のときのエピソードにも、淡谷のり子さんの深い人間愛と強い意志を感じました。
戦時中は、ぜいたくをしていると叩かれた時代。
しかしながら、慰問先には、しっかりとメイクをして、ドレスを着て歌ったのです。
戦士たちに、つかの間の夢を、という心遣い、そして、外国兵のいるところでは、英語で歌う、という区別のない愛。
愛は、強いのだな、と思うのです。
淡谷のり子、笠置シヅ子とはライバルだった?
淡谷のり子さんと、笠置シヅ子さんは、同じ、服部良一さんに師事していたこともあり、同じ時代に歌手として、影響を与え合っていたのですね。
淡谷のり子さんが、7歳年上で、朝ドラ「ブギウギ」では、笠置シヅ子さんが、淡谷のり子さんに憧れる、という筋書きです。
当時は、淡谷のり子さんや、東海林太郎さんのようにその場に立って静かに歌う、というのが歌手、というものでしたが。
一方、笠置シヅ子さんは、ステージで踊り、観客と一体になったり、と対照的でした。
淡谷のり子さんは、そのことに、辛辣な批判をしたこともあります。
しかし、ライバルながらも、仲が悪かったわけではなく、お互いの家に遊びに行くこともあったそうです。
笠置シヅ子さんの娘さんの、笠置エイ子さんに、お母さんに感謝しなさいよ、ということを言っていたのだそうですね。
お二人とも、娘さんがいて、その父親は、笠置シヅ子さんの方も生まれる前日に亡くなっていたのです。
そんな辛い過去や、この時代の歌手としての苦労をお互いよくわかりあえたでしょう。
笠置シヅ子さんの情報はこちら↓
淡谷のり子は美空ひばりを嫌っていた?
淡谷のり子さんは、美空ひばりさんを嫌っていた、というのは、1990年(平成2年)の朝日新聞に載ったのです。
美空ひばりは大嫌い、と。
それは、美空ひばりさんがまだデビューしたての頃のこと。
まだ、持ち歌がなかったような頃です。
でも、歌は抜群にうまかった!
それに、笠置シヅ子さんのモノマネが上手で、いつも笠置シヅ子さんの持ち歌を歌っていたのです。
そして、淡谷のり子さんのステージの前に、歌わせてほしい、と頼んで歌ったのが、笠置シヅ子さんのモノマネだったのです。
これに、淡谷のり子さんは、怒り心頭!
私のステージはめちゃくちゃになった
と。
モノマネが、受けたのでしょうね。
また、淡谷のり子さんは、舞台に臨む前には、劇場のお風呂に入っていました。
当時は時代的にも、内風呂を毎日使う余裕もなく、美空ひばりさん(9歳)は、薄汚れて見えたのでしょうか。
美空ひばりさんも入りたがったそうで、支配人さんの計らいで、一緒に入れてあげたそうなんです。
いい香りの石けんで、まだ子供の美空ひばりさんをていねいに洗った、と言っています。
でも、でも、その後、押しも押されもしない大スターになったら、そんなこと覚えていない、と言ったのだそう!
これには、がっかり‼、ですね。
もしかしたら、バックについていた美空ひばりさんのお母さんの入れ知恵なのかもしれませんが、恩を仇で返すことになりましたね。
淡谷のり子のプロフィール
淡谷のり子さんの
本名:淡谷 規(あわやのり)
生年月日:1907年(明治40年)8月12日~1999年9月22日没
出身地:青森県青森市
身長:150㎝
血液型:A型
学校:東洋音楽学校ピアノ科(現在の東京音大)
愛称:ブルースの女王
東洋音楽学校ピアノ科から、声楽科に編入、主席で卒業。
「十年に一人のソプラノ」
と呼ばれる。
1931年頃から、古賀メロディでヒット曲を出し、日本人では、シャンソン歌手としても一人者となります。
1937年に「別れのブルース」が大ヒット!
1953年(昭和28年)、紅白歌合戦に出場、トリで歌う。
1971年(昭和46年)、レコード大賞特別賞受賞。
1972年(昭和47年)、紫綬褒章を受賞。
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