人気絶頂だった1985年末に、突如解散したオメガトライブ。
そんな時期に解散した理由とは、いったい何だったのでしょう。
ボーカルで、人気の杉山清貴の当時、その後、またメンバーの情報、そして、現在のことを、調べてみました。
見てみましょう・・・。
オメガトライブが人気絶頂時に解散する背景
まずは、「オメガトライブ」と言うグループは、バンド名ではなかったのです。
プロジェクト名だったと言うことを知りました。
この時代には、グループでは、珍しかったような気がします。
後述する「藤田浩一」氏の指揮の下。
作詞:康珍化、作曲:林哲司、のコンビで、提供された曲を歌う、という図式でデビューしたのです。
杉山清貴さんの上手さに目をつけてスカウトした、藤田浩一氏が、総指揮者だったのですね。
オメガトライブが解散した経緯と理由①
当時、「きゅーてぃぱんちょす」というグループ名でアマチュアで活動していた、
杉山清貴、大島孝夫、広石恵一、高島信二、西原俊次、吉田健二の面々。
そういう形態でデビューするという事実に困惑したのですね。
レコーディング時には、バックコーラスも、プロの人、演奏も、スタジオミュージシャンがするという。
それまでに、オリジナル曲だってあったというのに。
夏、海、恋物語、的な設定も、当時の彼らの志向とは違っていたようですし。
特に違和感の強かった大島孝夫、広石恵一。
メジャーデビュー時に、解散しようと言い出したとのことです。
しかし、与えてもらった曲を、とにかく売らないと、という思いがあって。
杉山清貴さんは必死に説得したそうです。
売れてきたら、オリジナルも出していける、それまで頑張ろう、と考えたのでしょうね。
オメガトライブが解散した経緯と理由②
しかしながら、売れたら売れたで、ますますそのかたちで続けて行かざるを得ないことに。
そして、制作には一切関与させてもらえないことに、不満も積もります。
そしていつしか疲れてしまったようです。
それで、メンバーで話し合い、今後の自分達のことを考えて解散を決意します。
事務所には、何も相談なしでの話し合いだったようですね。
なので、不仲ではない、メンバーの関係は良好だったと、杉山清貴さんは言っています。
確かにそうですよね。
曲を作る楽しみを知っている人たち。
用意されたものをこなしていくだけっていう日々は本当に辛かったでしょうね。
解散に反対だった、高島信二と、西原俊次は、そのままオメガトライブに残ります。
オメガトライブのメンバーは?
さて、最初にデビューした際のメンバーは・・・
杉山清貴(ボーカル)・・・1959年7月17日生 神奈川県横浜市出身
高島信二(ギター)・・・1960年10月23日生 神奈川県横浜市出身
西原俊次(キーボード)・・・1960年4月26日生 東京都品川区出身
廣石恵一(ドラムス)・・・1960年11月15日 神奈川県横浜市出身
大島孝夫(ベース)・・・1960年12月8日生 東京都出身
吉田健二(ギター)・・・1960年8月10日生 神奈川県横浜市出身
この6人で、1983年(昭和58年)4月21日に、「サマー・サスピション」でデビュー。
当時、テレビで見ていても、カメラはほとんど、杉山清貴さんを写していました。
なので、他のメンバーのことは、まったくわかりませんでした。(ごめんなさい・・・)
オメガトライブと藤田浩一との関係
オメガトライブをプロデュースした、藤田浩一という人は、元々作詞、作曲もするギタリストです。
そして、実業家、プロデュースの才覚もあった人なのです。
1980年にヤマハのポピュラーコンテスト(通称、ポプコン)に、「きゅうてぃぱんちょす」のバンド名で、先ほどのメンバーで出場し、受賞するのです。
当然、色々な所からのオファーが来ますが、曲の完成度に納得していなかった彼らは断っていました。
そこで、先の藤田浩一氏が、曲などはこちらで用意するから、と打診したのですね。
ちなみに、藤田浩一氏は、角松敏生(1981年)、菊池桃子(1984年)をデビューさせて成功しています。
敏腕プロデューサーだったのでしょうね。手掛けた人たちは、皆、売れていますよね。
藤田浩一氏は、自身の目指す音楽を表現できるグループを探していた、とインタビューで話しています。
そして、演奏力も評価していたが、何より、強力な、杉山清貴さんのボーカルに注目していたようです。
しかし、「きゅうてぃぱんちょす」のやっていた音楽とは違うものになることを説得されたとのこと。
この戦略で、確かに売れたのですが、2年ほどしか持たなかったのですね。
藤田浩一氏にとっては、残念でしたね。
オメガトライブのバンド名の由来は何?
「オメガ」は、ギリシャ語のアルファベットの一番最後の「Ω」。
「トライブ」は、種族という意味があり、「最後の種族」という意味合いなのでしょうか。
名付けたのは、DJの、カマサミ・コングという人。
メンバーは、上げられたバンド名の中で、違うものが気に入っていたそうですが、藤田浩一氏が、これに決めた、とあります。
バンド名まで、決められて・・・すべてをお膳立てしてもらう、というのは、何だか気の毒なことですね。
今は、snsを使って、自由に自身の音楽を配信して、聞いた人たちが、本当にいいと思うものが売れていく、という時代なので。
Z世代の人たちがこの現実を聞いたら、びっくり!ですよね。
杉山清貴の年齢や経歴①
さて、ボーカルで、かっこよくて、何かと取り上げられる、杉山清貴さんでしたが。
年齢は、先にも書きましたが、1959年(昭和34年)生まれで、2024年現在は65歳ですね。
警察官の父、三味線、日本舞踊の師匠をしていた母の元に生まれます。
小学4年生の時、ビートルズの「yesterday」を聞いてハマります。
中学になってからは、フォークソングもよく聞いていたそうです。
今の若い人もそうでしょうが、この当時の若者は、まず!、ビートルズに夢中になったものです。
何か、新しい世界が広がっていくようなワクワクさもありましたね。
高校時代には、アメリカンロックに夢中。
漫画を書くことも好きで、自身の将来を、音楽と漫画家で迷った時期もあるとか。
初めて知りましたが、どちらも、創造、自分で作り上げていくもの、ということでは、同じなのですね。
「きゅうてぃぱんちょす」のメンバーで、1989年、ヤマハのポプコンに出場。
優勝は逃したが、受賞します。
杉山清貴の経歴②(結婚、離婚、ソロ活動)
このことがきっかけで、「杉山清貴&オメガトライブ」としてメジャーデビューするのです。
そして、解散する年(12/24)の6月、テレビの「トップテン」に出場していました。
生中継中に、司会の堺正章に、「結婚の噂が出てるけど、本当?」と聞かれます。
そして「ええ、今月の26日に東京の教会で挙式します」と答えるのです。
世間では、大変なニュース!、生放送中のことで、編集もできません・・・。
次の年には、長女、真浦(まほ)さんが生まれて、ハワイに移住していましたが、その後、離婚。
杉山清貴さんは、日本に帰って来るのです。
さて、解散後、事務所から、契約期間が残っていたため。
ソロでやって、と言われ1986年からは、ソロ活動を始めます。
自身で曲作りもすることになります。
JALのCMに採用された 「僕の腕の中で」
爽やかな風が広がっていくような感覚、透明感のある歌声、今聞いても古さを感じませんね。
火曜サスペンスドラマのエンディングテーマとして、「風のロンリーウェイ」
バラードです。杉山清貴のあの澄んだ歌声と優しい雰囲気が、心を捉えます。
杉山清貴、メンバーの現在は?
杉山清貴・・・64歳の今も、日本の北から南まで、ライブコンサートの予定が詰まっていますね。
そして、時間のあるときは、サーフィンを楽しんでいるようです。
高島信二・・・音楽制作ディレクターとして活躍。
西原俊次・・・CM音楽の制作で活躍。
大島孝夫・・・運送業を経営。
廣石恵一・・・クレイジーケンバンドのドラマー兼バンドマスターとして活躍。
吉田健二・・・解散前に脱退。バンド、ザナドゥプロミネンスオーケストラなどで活躍。
皆さん、お元気そうでそれぞれの場所で活躍しておられる、そのことが、お互いもうれしい
でしょうね。
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