日本のポップミュージックシーンで、シンガーソングライターの元祖とも言える存在である、「大貫妙子」。
昨今のシティポップ人気再熱を語る時には、欠かせない存在です。
その、大貫妙子さんの若い頃の情報や、結婚相手、現在のご様子を調べてみました。
大貫妙子の結婚相手は?
結論から言いますと、大貫妙子さんは、結婚は、していないですね。
後述していますが、大貫妙子さんが音楽活動をされてから、色々とサポートしたり、共同制作したりしている時代に、坂本龍一さんとの噂がありました。
しかし、結局は、ご結婚までには至らず、その後も独身のようです。
「大貫妙子」の読み方は?生年月日や若い頃、生い立ちは?
「大貫 妙子」さんは、「おおぬき たえこ」さんです。
生年月日:1953年(昭和28年)11月28日 70歳
血液型:B型
愛称:「ター坊」
出身:東京都杉並区久我山
大貫妙子さんは、若い頃、中学、高校の頃から、アマチュアバンドを組み、音楽活動をされていたそうです。
家族:ご両親、兄、弟の5人家族です。
父の、大貫 健一郎さんは、特攻隊(特別攻撃隊)の隊員だったそうで、特攻機の不時着で生き残ったそうです。
戦後は、会社を立ち上げ、東京にて生活されます。
2009年に、『特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た』を刊行。
そこには、
「父は特攻隊が美化されることを、常に危惧していました。」
という大貫妙子さんの言葉が、著書中に引用されているようです。
そういう風潮は、戦後には、一部あったような気がしますね。
大貫妙子の出身高校、大学など学歴は?
さて、大貫妙子さんの出身高校ですが、都立桜水商業高校、現在の、都立杉並総合高校)を卒業。
その高校時代から音楽活動をされていましたが、卒業後は、陶芸家を目指し、お茶の水美術学校に入学。ただ、陶芸家は腰を痛めて諦めたそうです・・。
それまでもずっと音楽は、心のよりどころだったのですが、アルバイト中に声をかけられ、「三輪車」というフォークグループを結成します。
しかしながら、大貫妙子さんとは音楽性が合わなかったので、ここでのデビューはなかったのです。
確かに、大貫妙子さんは、フォークソングというよりは、もっとお洒落な、という言い方が合うのかわかりませんが、都会的で大人な、欧風な音楽性を表現されていた気がします。
その後、1973年に、山下達郎さん、村松邦男さんを紹介されて出会い、それぞれの音楽性が合致したのです。
そこで、「シュガーベイブ」というグループを組んで活動を始めます。
しかし、当時はグループサウンズが圧倒的な全盛期であった事もあり、また、シュガーベイブの音楽的傾向は、他の歌謡曲とも違いが大きかったのです。
シングル1枚、アルバム1枚で、1976年には、解散を余儀なくされます。
彼らの音楽が好きな人は本当はたくさんいて、非常に残念に思っていましたが。
しかしながら、その後、大貫妙子さんや、山下達郎さんの活躍で、「シュガーベイブ」の音楽は日本においてのポップスの先駆けとなるのですね!
認知度が、後からドーーン!、と来たという感じです。
今聞いても、まったく古さを感じさせない、都会的でおしゃれで異世界につれて行ってくれるような、そんな音楽です。
未来を、先に呼んでいた、というような世界でした。
大貫妙子、坂本龍一との関係は?結婚は?
その後、大貫妙子さんは、1975年にソロデビューされます。
その頃、加藤和彦さんや、坂本龍一さんが、細野晴臣さん、高橋幸宏さんと結成した「YMO」に、サポートをうけて、ソロ活動をしていました。
特に、大貫妙子さんのアルバムに、共作者の坂本龍一さんが、ミュージシャンとして、又、プロデューサーとして、アレンジャーとして参加したものはたくさんあるのです。
これが、未だに色あせる事なく、何なら、昨今海外の方でも見直されているくらいですね。
特に1977年リリースの「SUNSHOWER」は、昨今も「名盤」と、評価が高い作品です。
その坂本龍一さんとは、交際が当時から噂されていました。
長い間、一緒に音楽作りをしてきて話題にも上り、評価もされて、あうんの呼吸のお二人だったのでしょう。
交際の真偽は、はっきりしなかったものの、坂本龍一さんは、1982年に、矢野顕子さんとご結婚されます。
(2006年には離婚されますが。)
しかし、2022年8月号の、文藝月刊誌「新潮」で、坂本龍一さんは、こう語っておられたそうです。
「20代の前半、音楽仲間である大貫妙子と一緒にくらしていた」
奇しくも、2023年3月28日に、坂本龍一さんは、永眠されたのですが、その前年に、ご自分から告白されたということですね。
2020年に直腸癌が見つかり、その後も転移が見られていたので、ご自分の来し方を、色々思い巡らせて、吐露されたのでしょうか。
そして、大貫妙子さんは、結局、ご結婚はどなたともされていないようです。
大貫妙子、「事故」の噂は?
さて、大貫妙子さんのことを調べようとすると、「事故」というワードが出てくるのですが、それでも、何か事故にあったという事実はないようです。
去る2014年1月の、北海道新聞の取材で
「原発事故後、咳がとまらない日々が続いていた」
と明かしています。
周りの人の中には、原発事故以降、東京から関西など他県に移ったという情報があり、大貫妙子さんは、札幌に部屋を借りたということです。
このニュースが、「事故」というワードにつながったのかもしれませんね。
大貫妙子の一番売れた曲、代表曲は「都会」?
さて、大貫妙子さんの売れた曲、代表曲と一口に言ってもたくさんありますよね。
まずは、やはり、「都会」・・・1977年7月にリリースされたアルバム「SUNSHOWER」に収録された曲です。大貫妙子さんの代表的な楽曲ですね。
80年代シティポップの代表的な曲をあげよ、と言うと、まずは上がる曲だと思います。
そして後の2015年8月には、同じアルバムに入っている「くすりをたくさん」とこの「都会」でシングルカットされて発売されています。
他にも、「4:00AM.」「横顔」「海と少年」 (アルバム「MIGNONNE」)
「新しいシャツ」(アルバム「ROMANTIQUE」)・・・切ない曲。
「恋人たちの明日」(アルバム「AVENTURE」)
「ピーターラビットとわたし」、「色彩都市」、「黒のクレール」(アルバム「Cliche」)
「夏に恋する女たち」(アルバム「SIGNIFIE」)
「メトロポリタン美術館」(アルバム「カイエ」)・・・この曲、NHKのみんなのうたで、流れていて、大好きでした。
「ベジタブル」(アルバム「copine」)
「素直になりたい」(アルバム「DRAWING」)
「美しい人よ」(アルバム「TCHOU」) まだまだありますが・・・。
今聞いても、古さを感じさせることのない、普遍的な名曲ばかり、と感じます。
大貫妙子、2023コンサート情報
すでに終わってしまったコンサートもありますが、大貫妙子さんの2023年のステージ記録として
「Pure Acoustic 2023」・・・札幌公演 4月15日(土)
「Pure Acoustic 2023」・・・福岡公演 4月22日(土)
「大貫妙子アコースティックコンサート」・・・八ヶ岳高原音楽堂 7月1日(土)
ステージには、豪華な演奏陣共々、贅沢な時間を彩ってくれるのでしょう。
今も、世代を超えて、人々の心を魅了する、大貫妙子さん!
これからも衰えぬ歌唱を期待しています。
同じ時期のシティポップのアーティストたちの詳細記事はこちら↓
コメント