沢田研二、と言うと、60年代から80年代にそのかっこよさとパフォーマンスで知らない人はいない歌手。
カリスマ的存在でした。
1976年に、ザ・タイガースのリードボーカルとしてデビューし、その甘いマスク、妖艶さに人気爆発しました。
そのかっこよすぎな若い頃、ザ・ピーナッツの伊藤エミとの結婚、離婚、田中裕子との再婚など、回想してみました。
「ジュリー!」と呼ばれ続けた沢田研二さんは今も、田中裕子さんと仲良く暮らしているようですね。
沢田研二は若い頃から、なぜ「ジュリー」?
沢田研二さんは、、ザ・タイガースでデビューした時から、「ジュリー」と呼ばれています。
ザ・タイガースのメンバーはそれぞれ、愛称を決めていたのですね。
岸部一徳・・・サリー
森本太郎・・・タロー
瞳みのる・・・ピー
加橋かつみ・・・トッポ
そして、沢田研二さんは、「ジュリーアンドリュース」というアメリカの女優さんが好きだったので、「ジュリー」にしたそうです。
沢田研二さんが、女性の呼び名、ジュリーだったのだけれど、何ともピッタリではありますね。
1975年(昭和50年)に放映されていたテレビドラマ「寺内貫太郎一家2」。
ここで、沢田研二さんは、ポスターでいつも登場していました。
当時31歳だった樹木希林さん(当時は、悠木千帆)。
総白髪のおばあさん役で、ポスターに向かって「ジュリー~~‼」と叫ぶのがお決まりでした。
なつかしいです。
沢田研二の若い頃、経歴
沢田研二さんは、中学生時代は、「ケンカのサワケン」という異名があったのだそう。
でも、犯罪的なワルではなく、けんかっ早かった、という程度。
出身地である、京都の喫茶店で働いていた時は、ボーカリストに抜擢されます。
そして、その姿を見た、後の「ザ・タイガース」の岸部一徳に引き抜かれ、「ファニーズ」というグループのリードボーカルに。
歌もそうでしょうけど、そのビジュアルに可能性を見たのでしょうね。
ザ・タイガースのリードボーカルとして活動を始めたら、やはり沢田研二さんのかっこよさに人気沸騰でした。
ザ・タイガースは、4年ほどで解散しますが、次には超!豪華なメンバーのバンド「PYG(ピッグ)」のボーカルに。
グループサウンズ全盛期、ザ・テンプターズのリードボーカルだった、「萩原健一(ショーケン)」とのツインボーカルでした。
ソロ活動も始めていましたが、「危険なふたり」が大ヒット(1973年)。
その後、「追憶」「時の過ぎゆくままに」「勝手にしやがれ」「サムライ」「LOVE(抱きしめたい)」など・・・。
一人勝ち、という感じでヒット曲を連発!
ヒットだけではなく、沢田研二さんのビジュアルも独特でした。
アイライン、アイシャドウ、チークなどの化粧で、ジェンダレスな感じは当時は驚愕ものでした。
そして、衣装も、シースルーなものや、キャミソール姿など、奇抜さもだんだんとエスカレートします。
極めつけは、「TOKIO」の時の、大きなパラシュートを背負って、電飾を施された衣装には、ぶっとび!ました。
沢田研二の前妻は?息子「一人(かずと)」と再会
沢田研二さんは、1975年(昭和50年)に、ザ・ピーナッツの、伊藤エミさんと結婚します。
7歳年上でした。
ザ・ピーナッツも、芸能界では、トップ歌手だったので、どちらもトップアイドルだったのです。
格上のザ・ピーナッツの曲を担当することで、出会うのですが、伊藤エミさんは、ジュリーの大ファンだった、と聞いています。
二人は、比叡山延暦寺で結婚式を行ないました。
そして、ファン2万人を無料招待して、比叡山の蛇ヶ池人工スキー場で「結婚披露コンサート」を実施。
すごい規模ですね。
「僕の妻です」とファンの前で紹介すると、拍手や歓声の中に、泣き声、悲鳴とも言える声がうずまいたそうです。
ジュリー人気がどんなものだったか、わかると共に、誠実さも見えますね。
伊藤エミさんは、沢田研二さんの希望通り、芸能界を引退して、1979年(昭和54年)に息子の「一人(かずと)」さんを出産。
1987年に二人は離婚し、一人さんは、伊藤エミさんの元へ。
離婚理由は、沢田研二さんの不倫だったので、一人さんとは、ずっと会えずに過ごしていたようです。
沢田研二さんも再婚はしたけど、息子さんのことは気になってはいたでしょうね。
消息や、画像など、一切出回っていないようです。
でも、音楽関係の仕事をしているそうで。
母である、伊藤エミさんが亡くなり、面倒を見てくれていた伊藤ユミさんも亡くなって・・・。
澤田一人さんは、2013年、初めて父のステージを訪れ、感動して、楽屋を訪問!
25年ぶりの再会に、沢田研二さんは、涙、涙、だったそうです。
本当に、うれしかったでしょうね!
沢田研二はかっこよくて、おまけにセクシーだった!
沢田研二さんは、ザ・タイガースの頃から、リードボーカルとして常に前で歌うので、顔の美しさも目立っていましたね。
黒目がちでクリッと大きな目。
通った鼻。
そして、半開きの口元が、沢田研二さんのセクシーさを満開にします。
グループサウンズ時代からの、長髪もさまざまな衣装にマッチしました。
ずっと衣装を手がけていたのは、天才アートディレクターと言われる「早川タケジ」さんと言う人。
カウンターを食らわすような、奇抜な衣装は、早川タケジさんの案を、沢田研二さんが、思った以上に体現し、マッチしていました。
私は、「サムライ」の時の軍服姿がお気に入りでした。
沢田研二は奥さん・田中裕子と現在も
沢田研二さんは、前妻伊藤エミと結婚している1982年に、田中裕子さんとの出会いがありました。
映画「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」での共演です。
これがきっかけで、極秘で交際が始まります。
噂もされ、二人とも黙秘を貫いていました。
そして、沢田研二さんは、離婚届を置いて、出て行ってしまいます。
話し合い、とかもなかったのでしょうか。
妻の伊藤エミさんとしては、何ともひどい仕打ち、といいたくなりますね。
結局は、離婚、そして、慰謝料は、18億円、と言われていますが・・・。
でも、離婚後、すぐに結婚とはいかなかったようですね。
不倫の末の離婚、となれば、いくら、カリスマ・ジュリーでも、かなりのイメージダウンですよね。
人気も落ちてしまい、ヒット曲にも恵まれなく・・・。
でも、その8年後、二人は1989年11月12日、出雲大社にて、結婚式をします。
そして、今でも仲良く暮らしているそうで・・・!
インタビューで、再婚後、ほかの女性を好きになったことはあるか、と聞かれた時のこと。
それはない、と。
そして、二度と女の人を悲しませたくない、それに今度は因果が巡って自分が悲しむことになるかも、と思ったことを告白。
伊藤エミさんを相当に苦しめたことを、今も胸に秘めているようです。
無責任な行動だった、と。
今も、仕事で家を離れている時、「ちょっとおかあちゃんに電話してくるわ」とスマホを片手に席をはずしたりするそうです。
ちなみに、ですが、田中裕子さんは、学生時代から、ジュリーの大ファンだったそうです!
沢田研二の本名・身長・出身・年齢・血液型
沢田研二さんの
本名:澤田研二(さわだけんじ)
身長:171㎝
出身:京都府京都市出身、鳥取県岩美郡津ノ井村(今の鳥取市)
年齢:1948年(昭和23年)6月25日生まれ 75歳
血液型:A型
学歴:京都府立鴨沂(おうき)高校(中退)
父親:
澤田松雄
ごらんの通り、お父さんも、きれいな顔立ちのイケメンですね。
だからか、俳優志望で、映画監督の衣笠貞之助の付き人をしていたことも。
その後、火薬研究所の関連企業で働く。
ジュリーの、「研二」という名前は、父が研究所で勤務していたので、「研」という文字を使い、次男なので「二」を採用したのです。
母親:
澤田智恵子
お母さんも、この通りの美人な方です。
そのお母さんは、沢田研二さんに、映画俳優になってほしくて、はやりの髪型や、服をいち早く、沢田研二さんに身に付けていたそうです。
だから、いつもはやりのかっこいい服装をしていて、おまけに美男子だったので、目を付けられたそうですね。
兄弟:兄と妹がいる、3人兄弟の真ん中ですね。
今回は、ジュリーこと、沢田研二さんの、かっこよすぎの若い頃のことを主に書いてみました。
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