NHKの朝ドラ、「ブギウギ」は戦前の話からですが、面白くて、次が気になりますね。
やはり、笠置シヅ子さんが愛する人と出会って恋に落ちるところが早く見たいところです。
夫になる人は、吉本穎右(よしもとえいすけ)。
夫の母親に反対されるのですね。
その後、笠置シヅ子さんは、子供をもうけますが、夫を若くして亡くします。
なぜ先立たれたのでしょうか。
笠置シヅ子の夫は、吉本穎右、どんな人?
笠置シヅ子さんの夫は、「吉本穎右(よしもとえいすけ)」さん。
1923年(大正12年)10月26日生まれ、大阪府出身、笠置シヅ子さんの9歳年下です。
吉本穎右さんは、次男として生まれますが、幼い頃に、兄と6人の姉妹を亡くしていています。
母親は、吉本興業の創始者、吉本せいさんです。
朝ドラ『わろてんか』の「おてんちゃん」ですね。
吉本穎右さんの父親は、若くして亡くなっています。
又、長男も幼い時期に亡くしているので、吉本興業の跡取りは、穎右さん、と言うことになります。
なので、吉本穎右さんは、早稲田大学で「帝王学」を学びます。
「帝王学」とは、
伝統ある家系や家柄など、特別な地位の跡継ぎに、幼少時から家督を継承するまでの特別教育を指す。
と言うことです。
学問ではないようです。
そういう所に生まれ育った運命の吉本穎右さん。
小さい頃から体はあまり強くはなく、肋膜炎で入院したことも。
また、結核の持病がありました。
吉本穎右さんに関しては、大正生まれで、早世されているので、写真などがあまり確認できなかったのですが・・・。
何とも言えず、品があり、当時にはなかった言葉ですが、イケメンですね!
「ブギウギ」では、水上恒司さんが登場しました!
確かに!適役ですね!
笠置シヅ子と夫、吉本穎右との出会いは?
笠置シヅ子さんが吉本穎右さん出会った時には、ジャズ歌手としてもう有名に。
30歳になっていました。
1943年(昭和18年)のこと。
名古屋の御園座での公演時、吉本穎右さんは、俳優の「辰巳柳太郎」の楽屋を訪ねた時のこと。
中に入るきっかけをみつけられない吉本穎右さん。
笠置シヅ子さんは、手助けしよう、とするのですが・・・。
きっと謙虚でぐい!っと行けるタイプの人じゃなかったのでしょう。
その男性は、まさに笠置シヅ子さんの好みのタイプで、イケメン!
それで声がかけられなかったとか(笑)
そんなこんなで2度ほど顔を合わせてはいたのです。
そして実は、吉本穎右さんは、笠置シヅ子さんの大ファンだったのです。
そう紹介されたその時は、一緒に帰りましょう、と笠置シヅ子さんが誘うのです。
そしたら、吉本穎右さんは、先に駅に来ていて、笠置シヅ子さんの汽車の席も取ってくれていました。
重い荷物も運んでくれ、一緒に帰る車中、色々な話をしたのです。
出会いから、親交を深め、と言っても弟感覚での付き合いから1年半後、恋に発展!
「弟感覚」というのも、やはり時代的にも、身分の差、というものを気にしていたのですね。
ずっと支えになっていた、服部良一先生も上海に行ってしまい、吉本興業の支えを得て、歌手生活を続けていたのです。
そして、1945年(昭和20年)、東京大空襲で、お互い無事ではあったけれど、焼け出され、同棲することに。
その時には、御曹司の吉本穎右さんは、笠置シヅ子さんの興業の時は、マネージャー的な仕事をして笠置シヅ子さんの仕事に尽くします。
そして、戦争が終わり、半年間の同棲も一旦解消します。
この、短い同棲期間のことを、笠置シヅ子さんは、
「わが生涯 最良の日々」
と後に語っています。
吉本穎右さんは、早稲田大学を中退し、笠置シヅ子さんとの結婚する準備を始めます。
笠置シヅ子と夫、吉本穎右さんは結婚しなかったの?
そして、1947年(昭和22年)10月、笠置シヅ子さんが妊娠するのです。
実は、吉本穎右さんの母、吉本せいさんは、二人の結婚を反対していました。
しかし、笠置シヅ子さんの妊娠がわかり、歌手を引退することを条件に結婚できることに。
これには、吉本穎右さんの辛抱強い説得もあっての事のようです。
笠置シヅ子さんも悩みに悩み、引退、専業主婦になることを決意します。
最後のステージに向けて、身重ながらも離れて暮らしながら頑張っていました。
なのに・・・。
1947年(昭和22年)、笠置シヅ子さんと子供を迎えるため、吉本興業を継いで、頑張っていましが、過労がたたるのです。
風邪を引いたのですが、どんどん症状が悪化するのです。
そうして、5月19日、帰らぬ人に・・・。
死因は、奔馬性急性肺炎。
笠置シヅ子さんとしては、側にいなかったから、様子もわからず、まずは信じられなかったでしょう。
子供の認知はしてくれていました。
でもまだ、入籍していなかったので、正式には結婚してない状態で逝ってしまったのですね。
まだ身重の状態での大事な人との別れになってしまった笠置シヅ子さん。
笠置シヅ子さんは、吉本穎右さんに初めて会ったときにもらった名刺。
これをずーっと肌身離さず身に付けていたのだそうです。
そんな可愛さをもった笠置シヅ子さんが、こんな悲しい経験をしないといけなかったなんて・・・。
笠置シヅ子の夫、吉本穎右の母親は?結婚を反対していた?
笠置シヅ子さんの生涯唯一の夫、吉本穎右さんの両親は、吉本興業を立ち上げた創始者。
父親は、脳梗塞でまだ会社を立ち上げたところで、若くして、脳梗塞で亡くなっています。
その後、母親の吉本せいさんは、色んな人たちの助けもありました。
そして、関西のお笑いの拠点になるところまで苦労を重ねた人です。
「女帝」と、言われていますね。
そんな吉本せいさんは、二人の結婚を大反対していました。
その理由は、笠置シヅ子さんが、9歳も年上であること、そして、芸能人であること。
吉本せいさんは、芸能人を使う立場であり、芸能人とは、商品である、という考えも。
子供を8人生み育てて、7人を病気で亡くした吉本せいさん。
たった一人の跡継ぎの息子に9歳も年上の女性と結婚したい、と言われたら・・・。
それは、そうか、そうか、とは言えませんよね。
まずは、反対するでしょう。
しかし、息子に優しい気遣いで説得され、子供ができた、となるのです。
そして、穎右さん亡きあと、笠置シヅ子さんは子供を連れて、吉本せいさんを訪ねた時。
息子がお世話になりまして・・・と。
母子二人になってしまった笠置シヅ子さんに、子供の面倒を見る、と言う吉本せいさん。
吉本興業に養ってもらう、と言うことは、里子に出す、ということに?
でも、自身が養父母の元で育ったことなど考えると・・・。
自分も後で養子だと知ってしまって辛い思いをしたことを思います。
そして、自分の元で育てる決意をするのですね。
やはり、愛した人の置き土産のような、我が子を手放したくはなかったでしょう。
しかし、それはかなりの腹をすえた勇気のいることでもあったでしょうね。
笠置シヅ子の夫の死因
笠置シヅ子さんの夫、吉本穎右さんは、元々体は強くなかったのです。
この時代は、子供の出産率は高かったのです。
けれど、当時の環境的にも、今とはずいぶん違い、子供の死亡率も高かったのですね。
母親の吉本せいさんも肺結核の持病を持っていて、穎右さんにもそれはありました。
肺結核は、今では不治の病ではなくなりましたが、当時は国民病、と言われた病。
無理をして、過労がたたって、我々も風邪をひくことがよくありますが。
吉本穎右さんはこれに持病が悪化したのです。
国民病、とは言え、遺伝的なものも会ったのかも知れません。
吉本せいさんも、子供たちが全員亡くなってしまい、憔悴しきってしまいます。
そして、穎右さんの死後、3年で後を追うようにして亡くなるのです。
華々しいステージで、明るく歌う歌手にも、日常があり、そのプライベートは、計り知れない人間模様があるのですね。
あの、スパッと明るい、笠置シヅ子さんも、本当に辛い思いをいくつもしていたのですね。
そんなことを思いながら、また、ドラマを見ていきたい、と思います。
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