大瀧詠一の息子は今、死因は大動脈解離?妻や山下達郎との関係

昭和歌手
¤ƒIƒIƒ^ƒLƒGƒCƒCƒ`@ ì‹È‰ÆA‰ÌŽè

大瀧詠一と言う人。

自身独自のレーベル(ナイアガラ)を立ち上げて、オリジナリティあふれる音楽を作り出した人。

しかし、65歳の時に急逝されます。

りんごを食べているとき、突然ぐったりして、とあり、最初はのどに詰まらせた、と言われていましたね。

しかし、実際は、大動脈乖離(かいり)という重篤な病気だったのです。

残された大瀧詠一さんの妻や息子とのことなど、調べてみました。

大瀧詠一さんは、色々な大物アーティストたちとの交流がありましたが、特に、山下達郎さんとの関係は大きかったようですね。



大瀧詠一の息子は、大瀧詞巧

大瀧詠一さんには、息子さんと娘さん、二人の子供さんがいます。

息子さんは、「大瀧詞巧(しこう)」さんといって、大瀧詠一さんが立ち上げたナイアガラのレーベルを継いでいます。

主に、原盤管理の仕事をされているようですね。

1975年発売の「NIAGARA MOON」の中の「三文ソング」には、子供の声がすこーし入っています。

『サッチモォ アハ』と言っているようです。

この声が、息子さんの詞巧さんの声なんだそうです。

この頃は、自宅(西多摩郡)でレコーディングをしていたので、偶然入ったのか、と言われています。

そして、娘さんのお名前や詳しい事は、明らかではありません。

でも、娘婿さんの、坂口修さん(音楽評論家、プロデューサー)も一緒にナイアガラレーベルを守っています。

親族が、しっかりと継いでくれているのは、大瀧詠一さんにとっても、心からうれしいことでしょうね!

そして、2014年には、アルバム「Best Always」を作り上げています。

 

ちなみに、「ナイアガラ」という名前は、大瀧詠一さんがつけたものです。

姓の「大瀧」、大きな瀑布、ナイアガラの滝、というところから、つけた、ということです。


大瀧詠一の死因はりんご?実際は大動脈乖離?

去る、2013年12月30日、夕食後、デザートとして、大瀧詠一さんは、自分でりんごの皮をむいていました。

そして、、突然大きな声で、「ママ、ありがとう」と、大きな声で言われ、見るとぐったりしているのを、奥さまは見つけるのです。

119番に「りんごをのどに詰まらせた」と知らせて、奥さんは、救急車の到着まで、ずっと心臓マッサージを続けていたのです。

その時点で、チアノーゼを起こしていて、心肺停止だったそうです。

大瀧詠一さんの妻、静子さんは、看護師さんでした。

大瀧詠一さんが、ぐったりしているのを一番に見つけて、心臓マッサージまでされたけれど、蘇生しなかったのは、本当に残念な、悔しい思いをされたでしょう。

結局、死因は、大動脈乖離(大動脈の膜が縦に裂けて破裂すること)でした。

この病気は、胸や背中に、超激痛が走る、などと言われていますね。

 

今年では、笑福亭笑瓶さんが3月に亡くなっています。

俳優の、石原裕次郎さんや阿藤快さんもこの病気で命を落とされていますし、生還された加藤茶さんも、ですね。

絶対なりたくない病気です。

最後の言葉は、「ママ、ありがとう」と、大きな声!

亡くなる一週間位前から、風邪をひいた、と寝込んでいたのです。

しかし、風邪のような症状はなく、足腰に力が入らず、「脳が疲れたよ」と言っていたそうで。

その当時、大瀧詠一さんは、アルバム「EACH TIME」の制作中でした。

それで、病院に行く時間がもったいない、と行かなかったのです。

あぁ、残念‼

りんごをむいているときに、大瀧詠一さんは、自分の体の異変に、何かとんでもないものを感じたのでしょうか。

「ママ、ありがとう」だなんて、もしかしたらこのまま死んでしまうのかも、と思ったのでしょうか・・・。


大瀧詠一と山下達郎との関係は

大瀧詠一さんと、山下達郎さんは、いわゆる師弟関係、という感じじゃないでしょうか。

大瀧詠一さんは、1970年代、「ココナツ・バンク」というバンドを率いていた伊藤銀次さんから、聞かされるのです。

「日本に、ビーチボーイズ」みたいなコーラスをやっている奴らを発見した、と。

 

大瀧詠一さんは、ぜひ、会いたい、ということで、自宅の福生に呼び寄せるのですが。

寒い寒い日、長いこと待たされ、気の短い山下達郎さんは、爆発寸前!

その割に、山下達郎さん率いる、シュガー・ベイブで一緒の、大貫妙子さんは、ゆったり待っていたそうです。

そんな感じで、出会いは最悪だった、とのことです。

 

1973年の、「はっぴいえんど」の解散コンサート時、大瀧詠一さん+シュガー・ベイブのコーラスで、大瀧詠一さんの新たな旅立ちのお披露目パフォーマンスをしたのです。

その後、1973年12月の、「シュガー・ベイブお披露目コンサート」にも、大瀧詠一さんは関わります。

シュガー・ベイブのアルバム「Songs」を、ナイアガラレーベルの、第1弾として、エレックより発売するのです。

しかし、セールスは、低迷し、エレックが倒産したり、とさんざんでした。

ただ、時代が追いついてきて、「Songs」の良さが再認識されるのですね。

大瀧詠一さんは、「30th  Anniversary Ultimate Edition」(30周年記念盤)を発売。

しかし、40周年の2015年には、大瀧詠一さんは亡くなっていたのです。

そこで、山下達郎さんは、もし、生きていたなら、きっと40周年記念盤も出してくれていただろう、と発売します。

CMをやる、となったら、手伝い、アルバムを作る、となったら、手伝い、など持ちつ持たれつ、という関係だったそうで。

山下達郎さんは、最近では、「君は天然色」をカバーする、なんてことが、供養になるかな、とツアーなどで、歌っています。

音楽をやっている人たちは、自分達の主張が強い、とか、気難しいとか、思ったりするのですが。

こんなに兄弟みたいな感覚で、仕事を手伝ったりできるって、お二人とも、度量が深くて、惹かれるものがあったのでしょう。

 

それにしても、こんなにお互いをリスペクトでき、ツーカーでいられた友達を亡くした山下達郎さんの心中は、いかばかりか、と思わずにいられません。

 

山下達郎さんの詳細はこちら↓

 

山下達郎は再婚したの?妻や娘、若い頃のこと、年齢や経歴、坂本龍一との関係
山下達郎さんと言えば、日本を代表するシンガーソングライターの一人ですね。 もはや、レジェンドと言えるアーティストです‼ そんな山下達郎さんの若い頃って、どんな活動をしていたのでしょうか。 私も同じ時代にいたとは言え、あまり詳しくは知らなかっ...

 

シュガー・ベイブの詳細はこちら↓

 

シュガー・ベイブの解散理由、メンバーや大瀧詠一との関係は?
今は昔、1975年にデビューし、わずか3年ほどで解散した、シュガー・ベイブ。 解散の理由は何だったのでしょう。 後に、山下達郎や、大貫妙子の活躍で、知名度が上がり、幻のスーパーグループとも呼ばれたシュガー・ベイブ。 メンバーは何人で、どんな...

 



 

大瀧詠一の本名、生年月日、結婚、出身地

大瀧詠一さんの本名は、菊池榮一

本名の「菊池」姓は、父親の姓で、「大瀧」というのは、母親の旧姓です。

事情は、明らかではないのですが、大瀧詠一さんは、小学校の養護教諭の母との、母子家庭だったようです。

そのこともあり、「大瀧詠一」と名乗って世にでたのでしょうか。

 

生年月日は、1948年(昭和23年)7月28日、ご命日は、2013(平成24年)年12月30日。享年65歳

大瀧詠一さんの奥さまは、「静子」さんという、看護師さんでした。

ただ、いつご結婚された、とか、なれそめ、とかは明らかではないです。

 

大瀧詠一さんの、出身は、岩手県江差郡(今の奥州市)

お母さんの職業柄、転勤も多く、入学した学校を卒業することはなかったそうです。

そして、お母さんは歌が好きな人で、よく流行歌を聴かされていたとのこと。

それに、お笑いも好きで、落語家を目指そうと思った時もあったのだそう。

野球や、相撲も得意で、学校では人気者だったそうです。

きっと、お母さんが、底抜けに明るい人で、榮一少年の心の内をよく察しておられたのでしょうね。

大人になっても、やはり、落語が好きだったそうですね。


君は天然色、幸せな結末、さらばシベリア鉄道

大瀧詠一さんの曲、「君は天然色」。通算7曲目のシングルです。

ロート製薬、キリンビバレッジ、アサヒビール、スズキ、サントリー、ダイハツなどのCMに使われ、アニメや映画の劇中歌や、テーマソングにもなっています。

色んな方がカバーもしていますね。

思い出はモノクローム」という歌詞は、依頼していた作詞家の松本隆さんです。

当時、妹さんを亡くされ、見える景色が色をなくした、との感覚から、このフレーズを思いついたそうです。こんなエピソードは、心を改めて揺さぶりますね。

アルバム「A LONG VACATION」に収録されています。

幸せな結末」という曲。

1997年の「ラブジェネレーション」というドラマの主題歌でしたね。

主役が、木村拓哉、松たか子の恋愛ドラマでしたし、感情が乗っかってしまう曲です。

こちらも、鈴木雅之さんなど、カバーされています。

 

さらばシベリア鉄道」と言う曲。

こちらは、太田裕美さんへの曲で、1980年にリリースされます。

私は、セルフカバーしか聞いたことがない、と思っていましたが、あ、知ってる、と思ったので太田裕美さんの曲を耳にしていたのでしょう。

歌番組も当時は割とありましたので。

 

後、松田聖子さんの、「風立ちぬ」や、小林旭さんの「熱き心に」、森進一さんの「冬のリビエラ」も、大瀧詠一さんの作曲した曲の、有名な、代表曲ですね。

 

何十年経っても、古くささがなくて、心に灯がともるような曲をずっと作り続けていたのですね。

5,60歳代の人たちは懐かしく、今の新しい年代の人たちも受け入れられている作品たち。

人には寿命がありますが、いい曲は、世代を超えて、歌い継がれるのだ、ということの証明みたいなミュージシャンでしたね。

https://popsfanlife.com/takeuchimariya-prof-584


コメント

タイトルとURLをコピーしました