昭和の歌姫の一人、中森明菜という人。
レコード大賞を、2年連続で取った、という功績。
テレビで見なくなってずいぶん経ちますが、絶対的なファンはまだまだ健在していますね。
中森明菜さんの半生は、実に波瀾万丈で、はらはらさせる人でもありました。
「死因」というワードが。妹、明穂さんのことかな?
そんな中森明菜さんには、息子がいるとか・・・。
旦那さんの存在も?
中森明菜さんのこれまでを振り返りながら、調べてみました。
中森明穂(中森明菜の妹)の死因は?
中森明穂さんの死因は、肝硬変でした。
中森明菜さんは、2男4女の6人兄弟の次女で5番目。
末っ子の妹、明穂さん(3女)がいました。
1歳違いで、仲良しでした。
明菜さんが歌手デビューしてから、後を追うように、1987年に芸能界に入ります。
最初は、ラジオパーソナリティをしていて、その後女優デビューしました。
『スケバン保母さん ツッパリ風雲録』、『赤ちゃんに乾杯!』というテレビドラマに出演。
そのうち、グラビアを始めて、「GORO」、「平凡パンチ」、「FLASH」に、載るようにもなり。
1988年には、「中森明穂写真集1988夏」という写真集を出版、「妹」というビデオを出します。
この2つは、セミヌードも含まれていて、明菜さんは、最初からそのことを反対していました。
それでも撮影に踏み切ったことで、明菜さんの怒りから、疎遠になり、そのまま絶縁、となります。
そして、この写真集も、ビデオも売れ行きは良くなく・・・。
明穂さんは、一度も結婚することはなく、お母さんを亡くした後の、お父さんと一緒に住んで、お父さんを支え続けていました。
その後、明穂さんは、肝硬変で入院し、ヘルニアも併発していました。
もう一度お姉ちゃんに会いたい、という明穂さんの強い願いから、明菜さんに連絡をするも、全くつながらなかった、とのこと。
絶縁して、24年、一度も会うことはなく、最期も看取れず、葬儀にも顔を出さなかったそうです。
元々は、仲良かった妹を、先に亡くした深い悲しみもあったでしょう。
それに加えて、明菜さんが芸能界入りしてから、家族や親戚との金銭トラブルがあった、といいます。
中森明菜さんの実家は、中華料理店を経営していて、明菜さんのお金を使い込んだ、と彼女は思っていて。
お父さん側は、否定していますが。
この溝が長年にわたって深まり、会いたくない!という気持ちが大きかったのでしょうか。
中森明菜、息子がいて、今は旦那と暮らしている?
結論から先に言いますと、中森明菜さんには、旦那さんも息子さんもいないようです。
中森明菜さんの一番新しい画像は、と言うと、2017年(35周年)のディナーショーでの姿のようです。
当時、52歳ですが、相変わらず、きれいで、細身で、50代とは思えない容姿だったそう。
2010年10月に体調不良により、活動の無期限休止を宣言。
その後、2014年にNHKの紅白歌合戦に、スペシャルゲストとして出場。
この4年間が空白期間と言われ、マネージャーと同棲している、との報道があったり。
神主との結婚、という報道があったり。
そして、2017年のディナーショー。
相変わらず、きれいな明菜さんだった。
そういうところで、実は結婚していて、息子(なぜ、息子なのか?)がいる、と言われていたのですね。
ただ、旦那さん、息子がいる、とネット上では噂になっていますが、2023年現在でも、その存在はないようなのです。
精神的に不安定な感じがする中森明菜さん、実際、旦那さん、息子さんの存在もいてくれたら、どんなにか心の支えになるのに、と思ってしまいます。
中森明菜、母親の死因は?確執があった?
中森明菜さんとお母さん(千恵子さん)は、明菜さんが1989年7月に、自死未遂を起こした時以来、疎遠になり、絶縁状態になっていたそうです。
それでも、明菜さんにとって、唯一の存在の母親。
大好きだったお母さん!
少しずつ連絡を取って、1994年くらいから、仲直りをし始めたようで。
しかし、お母さんが58歳の時(1995年)、直腸がんで、亡くなってしまいます。
せっかく関係性を修復したというのに・・・。
中森明菜さんの喪失感は、どんなに深かったでしょう。
お母さんが亡くなってからは、明菜さんは、中森家から、戸籍を抜いていた、との話もあります。
お母さんは、元々鹿児島出身の方で、歌手を目指して、19歳で上京されていました。
生活のため、歌舞伎町のキャバレーで働いているとき、父親の中森明男さんと出会います。
そして、21歳で結婚。
歌手になる夢は叶わなかったのですが、明菜さんが芸能界に入ったことで、夢を託すようになったのですね。
中森明菜さんは、お母さんの夢も背負って、歌手として邁進していたのです。
中森明菜、現在は病気を克服?復帰している?
中森明菜さんが、最初に体調不良で、芸能活動を無期限休止、としたのが、2010年10月。
加えて、免疫低下もあったようです。
体調不良は、ハードな歌手活動から、と言えるでしょう。
それに、精神的な不調、ストレスが明菜さんを苦しめ、何度か入院していたようですね。
そして、ストレスが原因でなる、と言われる、帯状疱疹。
この病気は、一度発症すると、またなりやすい、と言われていますが、12年も闘っているそうで、今も、すっきりとはいかないようです。
復帰、というところまで、前進はしてないようですが。
中森明菜の年齢、身長、出身、学歴、血液型、家族
中森明菜さんの
年齢:1965/7/13生まれ 59歳
デビュー当時から見ているので、中森明菜の58歳って想像できません!
身長:160㎝ 意外です。もっと小柄に見えていました。顔が小さいからなのか・・・?
出身:東京都大田区生まれ、清瀬市育ち
学歴:明治大学付属中野高校定時制中退
血液型:A型
家族:父親、母親、6人兄弟(2男4女)の5番目
ちなみに、中森明菜さんの兄弟は6人とも、お父さん(明男)の「明」を取って「明~」と命名されています。
明菜さんは、自身の名前をとても気に入っていて、デビュー当時、芸名を「森 アスナ」という名前を検討されていましたが、これを拒否したそうです。
「明菜」という名前は、彼女の活躍もあって、生まれた赤ちゃんに命名する人も多かったようですね。
中森明菜、近藤真彦との恋は?
中森明菜さんの、恋愛事情は?、と言うと、まずは近藤真彦さんですよね。
1985年に、「愛・旅立ち」という映画で共演してから、二人の恋は始まりました。
中森明菜さん、近藤真彦さんは、二人ともトップアイドルなので、秘めたる恋ではあったのですが。
近しい人たちには、その情熱的な恋を隠そうとはしなかった、と言われています。
中森明菜さん手作りのお弁当を届けたり、彼のマンションで、帰りをひたすら待ち続けたり、と一心不乱な恋だったのですね。
ふたりの交際は、お互いの事務所(ジャニーズ事務所でさえ?)もあまり口出ししなかったようです。
しかし、一方は、事務所間の不和は、あった、とのこと。
中森明菜さんは、清瀬の実家にも、よく近藤真彦さんを招いていた、と後にお父さんが語っています。
中森明菜さんの、献身的なこの恋も、やがてかげりを見せます。
近藤真彦さんは、女性にとてもモテるし、中森明菜さんのヤキモキはたいへんだったよう。
何か想像できますね。
中森明菜さん自身、山口百恵さんのように、結婚したい、という願望をもっていた、と言われていますね。
しかし‼1989年に、「フライデー」で、近藤真彦さんと、松田聖子さんの密会のスクープが載ります。
当時、松田聖子さんは、神田正輝さんと結婚していて、不倫だということ。
中森明菜さんは、松田聖子さんの最大のライバルと言われていたこと。
それらもあって、中森明菜さんの心は、マックスのダメージを受けます!
中森明菜さんは、本当に一途にマッチのことを愛していたのですね。
一方、近藤真彦さんは、ジャニーズの中では、珍しく、野性的なやんちゃなイメージがあり、ファンも多かったですね。
中森明菜さんも、彼のそんな所に、惚れ込んだのでしょうか・・・。
中森明菜、伝説の、金屏風前での記者会見
そして、その報道の5ヶ月後、近藤真彦さんのマンションのバスルームで自死を図ったのです。
発見は、近藤真彦さん。
未遂で済みました。
その事件以来、中森明菜さんは、表舞台からいったん、姿を見せませんでした。
そして、その5ヶ月ほど経った、1989年大晦日、中森明菜の復帰会見なるものがありました。
「近藤さんに、私よりもっともっと辛い気持ちを与えてしまいました」
そう語っていた中森明菜さんですが。
その直後、近藤真彦さんが姿を現わして、騒然とします。
そして、握手。中森明菜さんは、涙、涙。
近藤真彦さんは、
明菜とオープンな交際を続けますが、婚約などはまったく考えていないと明言
これには、ますますの騒然とした記者会見場!
そして、二人の後ろには、今の発言にはそぐわない、金屏風が置かれていたのが、不思議です。
だったら、なぜ、金屏風が置かれていたのでしょう。
ついに婚約会見?、と私は思っていました。
まさか、中森明菜さんもそんな風に思わされていたのでしょうか。
私は、中森明菜さん側の気持ちに寄り添って、憤慨していました。
でも、この後も、しばらくは、二人は付き合っていたとのこと。
中森明菜さんのそれからの色んな人生の不調は、ここから始まったような気がしています。
中森明菜のヒット曲、レコード大賞は2年連続
中森明菜さんは、出す曲、出す曲、みんなヒットしましたね。
1982年のデビュー曲、「スローモーション」は、可愛くて、でも歌唱力はしっかりしているなー、と感じていました。
2枚目の「少女A」も大ヒット!
そして、ついに!1985年の「ミ・アモーレ」で初のレコード大賞!
作詞は康珍化(ヒット曲メーカーな人)、作曲は、松岡直也。
この年は、一年を通じて、中森明菜ブーム、と言われていましたね。
安心感の持てる歌唱力、衣装、髪型、そして何よりも、ただよう独特の雰囲気が!
圧倒的でした。
その翌年、「DESIRE」で、またもやレコード大賞‼
エキゾチックな衣装や、低音の太さ、高音のビブラートの使い分けが抜群な人ですね。
私的には、忘れてはならないのが、井上陽水、作詞作曲の、「飾りじゃないのよ涙は」。
女性の強がり、を中森明菜、という唯一無二の人が、演じてくれていて、誰にも真似できない、と感
じていました。
そして、加藤登紀子さん提供の「難破船」‼
イントロ前から、感情移入している、と思われる、歌の世界へのなりきりに感服します。
そして、いつもだいたい、一筋の涙。
こちらも、よくもらい泣き、と言うか、感じ入って泣いてしまっていました。
また、中森明菜さんの歌声を聞きたいなー、と今回しみじみ思いました。
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